作品と実体
Art and Its Form

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作品の実体はどこにあるのだろう。

絵画であれば絵の描かれたキャンバスが、彫像であれば金属の像が、すなわち作家の制作した物体が作品であり、実体だ。そうした作品を収録した図録は、あくまでもカタログであって作品ではない。

写真はどうか?

写真展と写真集が、写真家にとって作品発表の場だ。世間的には写真集にまとめてナンボという風潮がある。写真集をゴールに設定する写真家は少なくない。しかし、写真集とは印刷物だ。オリジナリティーという点では紙焼きプリントに軍配が上がり、画質という点でも写真高画質プリンターで出力したもののほうが高画質だ。

つまり、写真にとっての作品性は画質と比例しない。

そもそも賞を獲るような報道写真でも、かつては新聞が発表の場であり、現在ではSNSやウェブ媒体が主戦場だ。どちらも画質と縁遠い場である。

ただし、写真集を作る際、たとえばモノクロ写真なら印画紙の風合いをどう再現しようかと、用紙や印刷方式を検討する。カラー写真の場合も、用紙の光沢感、CMYKにさらに特色を加えるなど、「写真の再現」に余念がない。

このとき、僕らは何を再現しようとしているのだろう。

フィルムに関しては、ネガなら紙焼きプリンチ、ポジならポジそのものの見え方を想像する。デジタルはデータを素の状態で映し出したものをイメージする。そうすると、フィルムなら紙焼きとポジ、デジタルなら画像データこそが作品の本体ということになる。

写真集がゴールではなかったのか?

ここで僕らはある種の矛盾に陥る。SNSで見かけたすばらしい写真に、「すごい写真ですね。ぜひ展示で見てみたいです」とコメントする。写真展会場では写真家に向かって「写真集にまとめるご予定は?」とたずねる。写真という表現において、大元のデータよりも写真展が、写真展よりも写真集が、ヒエラルキーの上位に位置する。

でもその一方で、いつも大元をどう再現するかと腐心する。

つまり、大元とは異なる形態において、大元の美しさ、作品としての存在感を、どのように見せていけばいいいのか。そうしたことを僕らは考える。

作品と器、という命題が僕らの前に浮上する。作品と、それを落とし込むための器だ。

ここで生成AIの話をしたい。今年のはじめ、生成AIで描いたイラストをAIアート「突撃恋愛少女」という形にまとめた。春に個展を行い、その後、インスタグラムで主要作品を鑑賞できるようにした。現在は画集の制作を進めている。

この画集制作で、作品と器を強烈に意識することになった。

AIアートに取り組んで早々、実体化という命題を目の当たりにする。生成したイラストは、石膏でできた女子高生が突撃のポーズをとる、というもの。石膏がベースなので、一見すると無塗装のフィギュアみたいだ。3Dプリンターで出力できないものかと考えていたら、イラストを見せた複数の人たちは口を揃え「3Dプリンターで出力して売ればいいのに」と言う。技術的な問題もあって実現はしなかったが、早い時点でこういう思いがあった。

AIアートをどう見せるのが正解なのか。

個展とインスタグラムでイラストを公開したものの、それは絵柄を見せたに過ぎない。AIアートとしてのコンセプトは個展とインスタグラムでちゃんと伝えられたのだろうか。

自分の頭のなかで、AIアート「突撃恋愛少女」という塊と、それを何かしらの形態に出力したものが、別のものとして存在する。AIアート「突撃恋愛少女」にとって最良のアウトプットは何なのか。こうした考えのなかで、画集制作という話を固めていった。

未出力のAIアート作品と、それを最適出力するための画集という器だ。

画集はただイラストを載せるのではなく、印刷方法からケース、表紙の細部に至るまで、「突撃恋愛少女」という作品世界を体現するためにディテールにこだわった。完成した画集は「突撃恋愛少女」の図録ではなく、本そのものがアート作品となる。そういう作り方をした。

無形の表現の塊を、どう実体化していくか。画集制作はそういう作業だった。

AIアート「突撃恋愛少女」が完成しても、そのあとに実体化という別の表現作業が待っている。実際に僕のなかでは、AIアート「突撃恋愛少女」と画集『突撃恋愛少女』は別ものであり、作品と作品の実体という関係だ。

技術と産業が芸術を概念化する。もはや一枚の絵画で作品性と作品の実体を示していた時代には戻れない。

僕らはデジタルカメラやAIで実体のないアートを生成し、それに紙や樹脂で実体を与える。実体化されたアートは無形のアートを体現しているが、無形のアートと同一ではなく、あくまでも実体化で採用したスタイル(本やプリントやフィギュア)において最適化された姿にすぎない。無形のアートをどう出力するかは作家次第であり、その出力形態がどのような表現になるかは作家の腕の見せどころとなる。

そして、アートはメタ化する。

デジタルカメラの登場はプロとアマの境目を希薄にする。生成AIの登場でクリエイター不要説すら囁かれる。誰もが手軽に創造できる時代だ。従来型の表現は猛烈な勢いで陳腐化していくのだろう。ただそれと同時に、デジタルカメラや生成AIを駆使した新たな表現も猛烈なスピードで花開く。

人は便利なツールを生み出し、それを使いこなし、ただひたすら前人未到の領域を目指すのだ。