FRED HERZOG MODERN COLOR
写真集に落ちた視界を拾う

写真・文=澤村 徹

 

写真家の田中長徳さんがSNSでフレッド・ヘルツォークを紹介していた。たぶん、虫の知らせというやつだろう。この手の本としては買いやすい価格だったので、特に下調べもせずにAmazonで注文した。これが大当たりだった。

自分のなかでは「全曲当たりのCD」というのが至福状態を示す指標なのだが、フレッド・ヘルツォークの「モダンカラー」は「全カット当たりの写真集」だった。彼はニューカラーの一人と目されるバンクーバー在住のドイツ人。めくるめくストリートフォトグラフィーにページをめくる手が止まらない。ただ、ページを進めるほどに微妙な違和感が生じてくる。自分好みの写真がひたすら続く至福モードなのだが、惹きつけられるベクトルが、何か好みの問題とは異なるのだ。

たとえば、ソール・ライターが流行ったころ、僕もご多分にもれず「永遠のソール・ライナー」というフォトブックを購入した。かっこいいなあ、おしゃれだなあ、どうやってこういう写真を撮るのだろう。純粋に一冊の写真集を楽しんだ。楽しんだのだが、それは自分とまったく無関係な写真として、だ。その他の多くの写真がそうであるように。

目の前の写真がどんなに素晴らしくても、当然ながら僕とはまったく関係ないものだ。僕と縁もゆかりもない世界的な写真家が、僕自身、訪れたことも下調べしたこともない場所を撮った写真。どんなにその写真に惹きつけられようが、僕にはまったく無関係だ。当たり前の話だ。

ただ、フレッド・ヘルツォークの写真はちがった。「ここオレ撮るわあ」とページをめくるたびにつぶやいていた。人物スナップや決定的瞬間的な写真はそうでもないが、街並みをストレートに撮った写真は十中八九この感覚が湧く。自分の写真に似ているとか、自分の撮り方と似ているとか、そんな不遜なことを思っているわけではない。もし、この写真の光景に自分が立ったら、まちがいなくカメラをかまえるはず。そういう確信が止まらないのだ。

自分がその場でカメラをかまえる姿が容易に想像できる光景、それが写真として目の前にある。無論、本当に僕がその場に行ったところで、フレッド・ヘルツォークのような写真が撮れるわけがない。そういうことではなくて、ただただ「ここはオレも撮る」という他意のない確信が心を支配する。うまく伝わるかわからないが、フレッド・ヘルツォークの写真集を見て、こんな気持ちになったのだ。

自分の視界が写真集に落ちている。

これまで写真集を見てもこんな気持ちになったことはない。誌面に自分の視界を見つける? 記憶の上塗り、それとも疑似記憶か。いずれにしても、目の前の写真を突き放して見られない。他人事でなくなる。そして「Foot of Main」という作品を見たとき、感情はピークを迎える。

 

 

望遠でパースを付けずに撮ったストリートの写真。大きな建物と広い道路。手をつないだカップルがこちらに向かってくる。例によって「ここオレ撮るわあ」と感じた直後、キャプションでこの写真が1968年に撮影されたことを知る。それは僕が生まれた年だ。

生まれた年の見ず知らずの場所で、見ず知らずのふたりを見ず知らずの写真家が撮った写真に、自分自身の視界を感じた。時間と空間が理不尽にねじ曲げられ、机の上の写真集に縛りつけられる。この気持ちにどういう名前をつければいいのか、まったく検討がつかない。この感情を誰かと共有できる気もしない。ただ、自分にとってかけがえのない写真集と出会えたのだと、そのことだけはよくわかる。